火炎と水流
―交流編―


#5 教室も心も水浸し!


その日、淳は学校に来なかった。主のいない机はどこかがらんとして他の机よりも大きく見えた。
(ちぇっ。何でおいらがあんな奴のことなんか気にしなくちゃいけねんだ。傷ついてるのはおいらの方なのに……)

――谷川って名前も変わってるけど、性格も変わってるよな
――乱暴だし、あの村田と組んでるなんてろくなもんじゃないよ

クラスメイトに言われたことが頭の中でぐるぐる回る。
(くっそ! やっぱ許せねえ!)
ばんっと机を叩いて立ち上がる。
「どうした? 谷川、そんなに答えたいなら、前に出て来て黒板の問題を解いてみなさい」
烏場先生が言った。
「え?」
みんなはしらっとした雰囲気で水流を見た。

(いけね、まだ算数の授業中だった)
「えっと、あの、おいらはべつに問題が解きたいってわけじゃなくて……」
黒板に書かれた数式を見て水流は気が遠くなった。
「いいから、さあ、ここに来て」
烏場先生が急かした。
「でも……」
水流は口をもごもごさせたが、先生がうなずいて見せるのでしかたなく前に出た。

(そうか。先生はこっそり答えを教えてくれようとしているんだ)
水流は黒板の前に立つとチョークを持った。そして、耳を思い切り先生の方へかたむけた。けれども、先生の声はちっとも聞こえて来ない。
(あれれ? 変だな。もっと近づいた方がいいのか?)
水流が先生のそばによろうとすると、ついに烏場が口を開いた。

「何だ、わからないのか? さっきの説明をちゃんと聞いていたなら解けるはずだぞ」
(ちぇ。何でえ。まるで頼りになりゃしねえ)
水流はじっと黒板を睨みつけた。が、いくら見ても答えは浮かんできそうになかった。
「そんなに難しいところじゃないだろう。ほら、まず先にかっこの中の引き算をするんだ。17−8だぞ。簡単だろ?」
「17ってーと、10より大きいってことだから、えーと……」
水流はこっそり指を立てて数え始めた。みんながそれを見てこそこそとささやく。

そんなこんなで水流がぐずぐずしている間にとうとうチャイムが鳴った。
「よし。時間だ。谷川は家でこの問題を解いて来るように……」
先生が言うと、日直の子が、
「起立!」
と号令をかけた。
皆、がたがたと椅子を鳴らして立ちあがる。
「礼!」
「これで4時間目の勉強を終わりにします」
みんなは、あいさつの言葉が言い終わらないうちにばらばらと散って行った。午前中の授業が終わったのだ。給食当番は白衣を着ると大急ぎで給食室に走って行った。残りの子達は給食の準備ができるまで外に遊びに行ったり、好きな本を読んだりして待ち時間を過ごしている。

「ねえ、明日からプールだって……」
「わたし、水泳は苦手。プールに入れるのはうれしいけど、検定がいや」
女子達が放しているのを聞いて、水流が口をはさんだ。
「何だい、その検定ってのは」
「何メートル泳げるようになったかを測る試験よ。10メートル泳げたら4級で25メートルなら3級。他にもいろいろあるけど……」
その子ははっとして手で口をふさいだ。
「いけない。谷川君と口をきいちゃいけないんだった」
「おい、何だよ、おいらと口をきいちゃいけねえなんてだれが言ったんだ?」
しかし、それ以上何も言わず、彼女達は席を立つと教室から出て行ってしまった。

「何だよ、気に入らねえな」
水流は前の席の椅子をけとばすと、ぶつくさ文句を言った。
「それにしてもプールか……わざわざそんな入れ物に水をためて泳ぐなんて人間ってのも不便なもんだな」
水流は山間に流れる美しい小川をゆうゆうと泳ぐ自分を想像してうっとりした。

「谷川君は水泳は得意なの?」
いきなり後ろから声をかけられておどろいた。が、それは学級委員の泉野だった。
「ああ。おいら泳ぎなら負けないぜ」
「それは頼もしいな。夏休みの前に水泳大会があるんだよ。毎年とても盛り上がるんだ。それじゃ、今年は1組の優勝まちがいなしだね」
泉野はにこにこと言った。
「おーよ、まかしとけ!」
水流はうれしくなった。
(へへ。水泳か。それならおいらに敵う人間なんかいるわけねえもんな)

「そうだ。お母さん、忘れずに新しい水泳パンツ買ってくれたかなあ」
突然、泉野がそんなことを言った。
「何で泳ぐのにパンツがいんのさ?」
水流がきいた。
「え? だってまさか裸で泳ぐわけにはいかないだろう? 去年のやつ小さくなっちゃってさ」
「そうなのか?」
「うん。うちの学校では、みんな指定された水泳パンツと帽子をつける決まりになってるからね」

「そんな専用のなんか、おいら持ってねえぞ」
(まったく人間ってのは面倒な生き物だぜ。あーあ。それにしてもどうしよう。火炎の奴だってそんなことまではわかってねえだろうしな)
「それってどこに売ってんだ?」
「荒川スポーツ店が取り扱ってるよ。駅の東側の商店街にある」
「そうか。助かるよ。あんがと」
水流はしっかりと頭の中に店の名前をメモした。

給食はコッペパンに牛乳。オムレツにウインナー、それとマカロニサラダだった。
「へへ。おいらの好物ばかり。火炎の作る料理なんかよりよっぽどうまいや」
水流は満足した。

そして、給食が終わり、5時間目の授業が始まる頃になると次々と保護者達がやって来た。
(そうだ。今日は授業参観日だった。火炎の奴来てるかなあ?)
授業が始まってからも水流はどことなく落ち着かず、ちらちらとうしろを見ていた。が、火炎の姿は一向に見えない。
(ちっきしょ。やっぱ、おいらの教室には来ねえつもりだな)
ふと、淳の机が目に入った。
「村田君は来ていないのね」
背後からも親達の囁く声が聞こえた。

「そりゃ来れないでしょうよ。あんなことをしでかしたんだもの」
「クラスの女の子に火をつけたんですってよ。子どものくせに何て恐ろしい」
「それだけじゃないのよ。万引きの常習だって……。どうやらこの辺の悪ガキのボスらしいの」
「あんな子と同じクラスになるなんて、本当についていないったら……」
その時、保護者の一人の携帯が鳴った。すると、その人は電話の相手と関係のないおしゃべりを始めた。

「すみませんが、教室での通話はお控えください」
烏場先生が注意した。が、その人は無視して話続ける。
「それでね、今度のバーゲンで……」
「申し訳ありません。子ども達が勉強しているものですから、外でお話ください」
烏場がドアを開けてその保護者を追い出そうとした。
「ちょっと! 何すんのよ。ここにはうちの子だっているんですからね。見る権利があるのよ」
携帯も切らずに喚き散らす。

「ですから、少し静かにしていただけないかとお願いしているんです」
毅然とした態度で烏場は言った。
「まあ! 私がいつうるさくしたとおっしゃいますの? ねえ、皆さん、そう思いませんか?」
ようやく切った携帯を振り回しながらその人が言うので、周りの人達もそうだそうだとうなずいた。

「では、授業を続けますのでお静かに」
そう言うと烏場は教室の前に戻った。
(やれやれ学校の先生ってのも大変だ)
水流は首をすくめて周囲を見た。子ども達はくすくす笑ったり、机の中からマンガ本を引っ張りだして読み始めたりしている。そして、親達も相変わらず学校とは関係のないおしゃべりを続けている。烏場先生がいくら注意をしてもまるで効果がない。それどころかさっきのように逆に先生に向かって食ってかかる者もいた。

「大体、先生がだらしないから、村田のような子が問題を起こすんでしょう?」
「そうよそうよ。先生の指導がなっていないから……」
「学校が悪いから……」
「あんな問題児といっしょにしないで。今すぐクラスを変えてください」
「でなければ、あの子をどこかにやってください」
攻撃の矛先はまた村田に向けられた。
(どうしてだろ? みんな淳のこと悪く言っってる……)
「そうよ。あの子さえいなくなればいいのよ」
「悪いのは村田だ。追い出してしまえ」
「そうよ。迷惑だわ! さっさと警察に渡してどこかの施設にでもやってしまえばいいのに……」

大人達は勝手なことばかり叫んでいる。それを見て子ども達は笑っている。誰も淳のことを庇う者はいない。教室の窓から射し込む強い陽の光に白いカーテンが陽炎のように揺れている。

「てめえら、いい加減にしろよ!」
突然、水流が立ちあがって叫んだ。
「悪いのは淳だけか? そいで、先生や学校だけが悪いってのかよ? 確かに淳は悪いかもしれねえけど、それだけか? あいつを追いだして、てめえらの子どもだけよけりゃいいのかよ?」
水流がまくしたてる。
「何なの? この子は……」
保護者達の間に動揺が広がる。

「ああ、そういえばうちの子が言ってたわ。転校生の子も変だって……」
「村田君と組んでコンビニで盗みをしたそうよ」
「そういえば恐ろしい顔してる」
また、こそこそと顔を見合わせてささやき合う大人達。
「てめえら……」
水流の身体が震える。
「谷川! 席に着きなさい」
烏場がそれを制した。

「保護者の皆さんもどうかお静かにお願いします。まだ授業は終わっておりませんので……」
「そう言われてもねえ」
「そうよ。こんな子とうちの子を同じ教室におくなんて……」
「野蛮だわ。教育委員会に訴えてすぐに隔離してもらわなくちゃ……」
その親達は子ども達より性質が悪かった。
(まったくうるせえばばあどもだ。見てろよ。その脳天に水ぶっかけて冷やしてやる)
まだペチャクチャとしゃべり続けている保護者達の天井から、
ザバッ
と水が落ちて来た。

「キャ!」
「何なの、これ……」
親達も子ども達も大騒ぎだ。

「へへん。どんなもんだい」
水流は得意そうに人差し指でごしごしと鼻の下をこすった。が、親達が立っている教室の後ろのドアが開いて、丁度入って来た火炎がびしょ濡れの姿でこちらを睨んでいることに気づいて青くなった。

「水流!」
その身体からは明らかにもうもうと湯気が立ち上っている。
「あちゃ。また何てタイミングの悪い時に……」
「そうか。おれが来たのがまちがってると言いたいんだな! わかった。もうこんりんざい、おまえの授業参観なんぞには来ないからな」
火炎は激怒していた。
「そんな……。ちがうよ。おいらはべつにそういう意味じゃなくて……」
水流は言った。が、火炎はさっさと教室を出て行ってしまった。

「待てよ、火炎!」
慌ててあとを追おうとする水流の襟首をつかまえて止めたのは烏場だった。
「君とはゆっくり話合わないといけないな」
振り向くと、教室中が水浸しになっていた。

「いやだ、本やノートまでぬれちゃった」
「せっかくおしゃれして来たのに、どうしてくれるのよ」
「ブランドのバッグが……。皮は水に弱いのよ。弁償してもらいますからね」
皆がてんでんなことを言っている。
「うへへ。ちょっとばかしやり過ぎたかな。けど、暑いんだから水浴びしたと思えばいいじゃん」
「そういう問題じゃないだろう」
烏場先生が呆れた。

「とにかく、皆さん、落ち着いてください。さあさ、みんなも……。服が濡れたままでは風邪を引いてしまう。取り合えず今日のところは一度家に帰ってもらって、懇談会は日をあらためて行うということでよろしいでしょうか?」
先生の意見に皆納得して、てんでんに自分の子どもを連れて帰った。


その頃、淳はまた、一人で公園に来ていた。大きな桜の前には倒れたままの重機が転がっている。
「ちきしょう! こんな物があるからいけないんだ。こいつのせいで真菜は……」
少女の影が遠い空を駆けて行く……。
「真菜……!」
淳は叫んだ。が、もう二度と思い出の時間は戻って来ない。
「消えちゃえ! みんな消えちゃえ! 消えてしまえ!」
淳は何度もその建設機械を拳で打った。そんな少年の後姿をじっと見つめていた花芽が言った。
「憎いかえ?」
「ああ」
「消してしまいたいかえ?」
「ああ。本当にみんななくなってしまえばいいんだ。こんな機械も、車も、何もかも……」
「ならば、地からを与えよう」
何処からともなく桜の花びらが舞い、彼の周囲を取り囲んだ。
「これは……」
少年が振り向くと、そこには年老いた桜の影が……。そこから伸びた枝がうねった蛇のように絡み合い、妖しの風を吹かせていた。


同じ頃。水流は烏場と一緒に水浸しになってしまった教室を片付けていた。
「谷川、もしもおまえが人間と共存していきたいと願うのならば、こんなことをしてはいけない。人間は心も身体も弱い生き物なんだ。少しくらいのことには寛容にならなくては付き合っていけんぞ」
「けど、あれはひど過ぎるよ。あれくらいした方がいいんだ」
「確かに彼らも大人気ないとは思うよ。だがな、彼らには彼らの言い分もあるんだ」
「わかんねえよ、そんな理屈。おいら、わかりてえとも思わねえ。それに……」
水流は、まだ僅かに水滴がしたたっているカーテンの向こうに透ける光の粒を見て言った。
「それに、おいらは共存したいんじゃねえ。おいらは人間になりてえんだ」
そう言うと水流は教室から駆け出した。
「谷川……」
倒れたままのモップに光が当たる。風に吹かれて舞い込んだ一枚の花びら……。

「烏場先生……大変でしたね」
廊下の方から教頭先生が声を掛けた。
「水道管に亀裂が入っていたようで、突然、天井から洩れて来たんです。幸い誰も怪我などしなくてよかったのですが、教室がこんなことに……。でも、すぐに業者の方に連絡しておきましたので……」
「そうですか。では、取り合えず明日から6年1組は空き教室に移動してもらうことにします。それでよろしいですね?」
「はい。お願いします」
そう返事しながらも、烏場は村田や水流のことが気になっていた。


――桃ちゃん、今日は懇談会に出るので少し帰りが遅くなるんだ。お留守番していておくれ。冷蔵庫にエクレアがあるけど、机の引き出しにお金を入れておいたから、それで好きなおやつを買ってもいいよ

「エクレアか。でも、これは水流が帰って来てからいっしょに食べようっと」
桃香はバタンと冷蔵庫を占めると机の引き出しを開けた。そこには100円玉と10円玉が2つずつあった。
「そうだ。みくちゃんが持ってたのと同じいいにおいがする消しゴム買えるかな?」
桃香はそのお金をつかんでポケットに入れるとコンビニに向かった。


コンビニはほどほどに込んでいた。桃香はまっすぐ文房具のコーナーに向かうと早速その消しゴムを見つけた。
「あった。ストロベリーのにおいのする消しゴム……」
彼女はピンクのそれを手に取った。微かに香りが付いているように思えた。が、隣を見ると同じ香りの付いたメモ帳やえんぴつもある。
「こっちもいいな。けど、お金はこれしかないし……」
桃香はポケットから銀貨を出して眺めた。どれか一つは諦めなければならない。

「どうしよう」
桃香が迷っているといきなり通りすがりに誰かが桃香にぶつかった。
「あ……」
その反動で持っていたお金が床に散らばる。あわてて3つは拾ったが、あと100円玉が1つ見つからない。泣きそうな顔で辺りを探していると、文房具の棚の向こうから男の子が来て言った。

「はい。これ、君のでしょう?」
そう言って彼はその手に100円玉を乗せてくれた。
「ちょうどぼくの足もとに転がって来たんだ」
その子はにっこり笑ってそう言った。
「ありがとう、お兄ちゃん。何て名前?」
「泉野」
「わたしは桃香」
「桃香ちゃんか。可愛い名前だね」
彼が笑ってくれたので桃香はすっかりうれしくなった。
「ほんとにありがとう」
桃香は何度もお礼を言うと消しゴム一つだけを持ってレジに並んだ。

桃香の胸の中はあたたかくなった。
「あとで、火炎や水流に話してやろう。親切にしてもらったのって……」
桃香はやさしい色の消しゴムと銀貨を握り締めて順番を待った。まえのおばさんがカゴにいっぱい買っていたのでなかなかレジが進まない。桃香は時々うしろを振り返って見た。泉野はまださっきの売り場でファイルを選んでいた。桃香が見ていることを知ると彼はにこりと微笑んだ。そして、えんぴつやファイルを抱えて自分もレジの方へ歩みかけた。

その時、彼の後から無理に通り抜けようとした男がいた。もともと狭い通路だ。二人がすれ違うためにはお互いが横向きにならなければ無理だった。それを強引に通ろうとしたので、泉野は前に押されて持っていたえんぴつの箱を取り落とした。それを拾おうとかがんだ時だった。すれ違った男が少年のズボンのポケットに何かをすべりこませた。桃香ははっとしてそちらを凝視した。

「次の方どうぞ」
ふいに言われてレジの方を見るともうさっきのおばさんは会計を済ませて出て行くところだった。
「はい、どうぞ、お嬢ちゃん」
「これお願いします」
桃香は持っていた消しゴムを出した。
「袋いる?」
桃香は首を横に振り、お金を払っていると、隣のレジに泉野が来た。そのレジは空いていたので彼はスムーズに会計を済ませた。桃香はおつりをもらって店を出た。そのすぐあとに泉野が出て来た。

「ちょっと、君、待ちなさい」
突然、うしろで厳しい声が響いた。桃香がびくっとして振り向く。と、泉野の腕を掴んで睨みつけている店長がいた。
「何ですか?」
わけがわからずきょとんとしている少年。その彼に男は言った。
「お金を払っていない物があるだろう」
「ぼくはちゃんと払いましたけど……」
彼は袋に入れた商品とレシートを見せた。

「それじゃない。君のズボンのポケットだ」
そう言うと店長は無理に彼のポケットに手を入れるとガムを取り出した。
「見ろ。このガムの料金を払っていないだろう?」
「ぼく、知りません。そんなガムに触ってもいません」
彼はそう主張したが、店長は信じなかった。
「嘘をつくんじゃない!」
店長が怒鳴る。

「うそじゃないよ」
桃香が叫んだ。
「桃香見たんだ。さっきお兄ちゃんとぶつかった人がポケットにそれを入れたの……」
「お嬢ちゃん、うそを言ってはいけないよ。それともこの子のお友達かい?」
「ううん。でも、さっきは桃香が落とした100円玉を拾ってくれたの。お兄ちゃんはいい人だよ」
「庇いたいのはわかるけれどね。こういうことはきちんと叱っておかないとこのお兄ちゃんのためにもよくないんだ」
店長は言った。

「ねえ、そうだろう? 泉野君。お父さんは立派な市会議員なのにねえ。何が不満でこんなことをしたんだい? 出来心ってことなら、素直に謝れば、今回だけは許してやらないこともないよ。君だってお父さんを困らせたくはないだろう?」
「ぼくは……」
少年は固く手を握ると男を見据えて言った。

「ぼく、やってません」
「何て強情な! 可愛げのないガキだ! なら、一緒に来い!」
言うと店長は強引に少年の腕を掴んで引きずって行った。
「ぼくは無実です。お願い。話を聞いてください」
「黙れ! このこそ泥め!」
男はまるで聞く耳を持たなかった。
「待って! ちがうの! お兄ちゃんはちがうの! 放してあげて」
桃香が追いかけて止めようとしたが無駄だった。

「何の騒ぎ?」
「あの子、泉野さんちの坊やでしょう?」
「ほら、市会議員の……」
「やだ。万引きですって……。人は見掛けによらないわね」
買い物に来ていた人達が言う。
「ちがうよ!」
桃香が叫んだ。
「お兄ちゃんは万引きなんかしていない! 桃香見たんだから……。桃香、ちゃんと見たんだから……」
しかし、そんな彼女の訴えを聞いてくれる者は一人もなかった。